西郷隆盛に学ぶ、敬天愛人フォーラム21

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西郷隆盛に学ぶ 『敬天愛人フォーラム21』
西郷隆盛
西郷隆盛と敬天愛人その教えを学ぶ
西郷隆盛を称えた先人

■ 西南の役に志願して従軍した池邊吉十郎熊本隊

 隊長・池邊吉十郎 副隊長・松浦新吉郎 参謀・櫻田惣四郎緒方夫門  大里八郎 山崎定平の4人、趣意書や規律を創って有志の召集にかかった。参加者、約1300人、之を五小隊に割付をした。

 出陣の指揮の時、西郷が本荘村に来ていると言うので、隊長の池邊は松崎廸・高島義恭の2人を呼んで、
『西郷大将が本荘村に来ているから、君たち2人はすぐに本荘村に行って、西郷大将に会って来て貰いたい』

『承知いたしました、ところでどのような事を申しましょうか』

『それは我らの本心を告げて、西郷大将に今後の方針を聞いて来るのじゃ』 『なるほど・・わかりました』

『我々は健宮村で待っている』

 2人は喜んで本荘村へ向かった、来て見ると西郷は既に春日村に移ったというので、すぐに春日村へ回った。果たして西郷は春日神社の傍に陣を張っていた。

 来意を告げて控えていると、やがて取次ぎのが者が来て、案内をしてくれた。二人は未だ西郷に会った事がないので、いろいろな想像をして西郷の人物密かに胸の内に描いて来ていたのです。

 天幕を張り巡らし大地に椅子を置いて、それに腰を下ろした西郷は二人の姿を見ると、すっと立ち上がった。

『さア、これへ・・・・』

『我々は熊本隊の使いで御座るが、松崎に高島と申します』

 西郷はまるで相撲取りのような大きな身体で、窮屈そうに大地にしゃがんだまま、手を着いている。

『池邊どんな、相変わらずご機嫌でごわすか』

 2人は面食らって、同じように大地に這いつくばったまま、頭を下げた。
『この度のことな、あまり急でごわして何事も打ち合わせする間も無くて、自然この県下へ乗り込むにも無断でごわした、こや、この県通らないことには、上京も叶わんことでごわすから、そや、お許しを願わなければならぬのじゃ』

『イヤ、何とも御挨拶で恐れ入ります』

 西郷の偉いことは今更吹聴するにも及ばぬが、ちょっと普通の人には出来ないことだ。

「2人は唯涙涙の出るほど嬉しい、勿論援けるつもりではあったが、ここに至って愈愈その気持ちますばかりであった。

『鎮台を攻めるに対て如何なるつもりか、それを伺いたいので御座る』

『ソヤ、明朝から短兵急に討ちかかるつもりでごわすよ、貴君等が来た上はご意見を聞いて、これから隊長の会議を開くことにし申す』

 2人が来なくても開くのだろうが、之では2人の為に開くようだ。

 松崎は風采は恰も貴公子のようであった、その上に多能の才物であった。

 家は細川藩の世臣で、時習舘の出身で学殖が深く、更に鹿児島へ行って今藤宏の門に入っていた関係から薩摩人に友人が多かった。

 松崎は永井村で捕虜となったが、懲役二年で出獄した後は郡長や細池の家芙勤めたりして国会の開けた年に亡くなった、享年四十三歳であった。

獄中に詠んだ歌
  たらちねも同じ影にやしのぶらん
  空なつかしき夏の夜の月

 高島義恭は坪井の生まれで、林藤次の門下生であったが、後、池邊の塾に入って師弟の関係になった、この人は出獄した後、師範学校長となり、また、大阪商船会社の長崎支店長、肥後銀の行の重役等を歴任した。
 義恭の母なる人がまたすこぶる偉い人で、10年の乱には坪井方面の有志が、この人の家を密会の場所にして、銃器や弾薬のしたくは多くこの家において整えたものである、その間に立って母の悦子は、非常の苦心を以って息子(義恭)の志を応援したのであった、
 さて、この2人が隊長会議に臨席して、西郷の前で大いに城攻撃に対て気炎を吐いたので終に、明朝の攻城戦には熊本隊の検索を用いるこ決したので、2人は鼻を高くして健宮村へ引き上げていった。(1812)

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