西郷隆盛に学ぶ、敬天愛人フォーラム21
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西郷隆盛に学ぶ 『敬天愛人フォーラム21』
西郷隆盛
西郷隆盛と敬天愛人その教えを学ぶ
西郷隆盛を称えた先人

■ 桐野 利秋( きりの としあき) - 西郷隆盛支えた仲間達

桐野利秋

初代陸軍少将、明治5年熊本鎮台2代の司令官。(廃藩置県にあわせて、全国4箇所鎮台本営が設置)明治6年陸軍裁判所長。明治6年の政変で下野帰国後、何の栄誉栄華を捨て、鋤鍬を拾い、自ら農人になった。西南戦争・四番大隊指揮長


贈従五位赤松小三郎先生記念

京都で中村半次郎(桐野利秋)に上位討ちにあった赤松小三郎 

赤松小三郎(183167)信州上田藩士。江戸で蘭学や西洋砲術を学び,勝海舟(182399)とともに長崎の海軍伝習所に赴任した。のち,京都で私塾宇宙堂を開いた。薩摩藩から招請を受けたが,公武合体論を唱えたため,慶応3(1867)93日,帰宅の途中,薩摩藩士に暗殺された。この石標は,赤松小三郎が暗殺された地を示すものである。佐幕派逆賊信州上田藩士、この者は洋学を会得するもので、去年の春より薩摩屋敷が依頼して、今出川烏丸通り西入町にに宿す。書生として、肥後、大垣、会津、壬生浪士からも一人弟子があり、その他の藩からも入り込む者が多い。そうしたとこら、帰国の暇乞いを申し出るにつき、段々と探索に及んだところ、佐幕派奸賊であることが明らかになる。この春には新将軍(慶喜)に拝謁などもしており、道断であることがわかる。そんな折、今日(慶応3年9月3日)東同院四条通り西入町にて出会うにつき、捨て置くべからず者ゆえ、僕が刀を抜いたところ、ピストルに手を掛ける。けれども、左の肩より右の腹へ斬り下げ、すぐに倒れたところを、田代氏が後より払い、一歩余り歩み倒れる。すぐにとどめを僕が討つ。(村田新八、野津鎮雄、東郷平八郎、桐野利秋、)


「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」『丁丑擾乱記』市来四郎

 

「桐野は廉潔剛胆百折不撓の人というべし。最も慈悲心あり。文識はなはだ乏し。自ら文盲を唱う。しかりといえども実務上すこぶる思慮深遠、有識者に勝れり」ともある。

 

後年、勝海舟は「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」(『氷川清話』)

 

大隈重信は「西南の役に大西郷に次いでの薩摩の驍将桐野利秋、彼はすこぶる才幹の男であったが、これがやはり派手であった。身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であったが、着物をぶざまに着るようなまねはせず、それも汚れ目の見えぬきれいな物づくめであった」(『早稲田清話』)

 

 
鹿児島から四キロ離れた吉野村や實方方面は極貧乏武士が多く住んでいた、多くは紙すきを行なったり、さつまいもや、雑穀類を生産して生活の足しにしていた。さればこの土地の侍の事を指して、城下に住んでいる上級の武士たちが『吉野唐芋紙漉武士』というて軽蔑をしていた。

 そのような中で育った半次郎は、寺小屋にも入れず、武術の修行も人並みに出来ない、しかし、これから先は腕だけは磨いておかなければと考え、付近の山に入ってひそかに腕を磨いた。立ち木を相手に、大きな木の幹から枝が出ている、その幹と枝の間に木剣を振りかぶり、気合を入れて、鋭!と打つ、多くは木剣が折れたり、木剣を放たりするが、立ち木はなんでもない、しかし、だんだん修行すると終いには、鋭!と打ち下ろすと、ざくツと木の股を刃物で削いだようにきる事が出来た。年も、20歳頃になると身体つきも立派になり、一人前の侍らしくなってきた。

 特に強情で我慢強いので、吉野一帯の武士の中で中村流我慢と評判になった。

 事の為に城下に出た時、上級の武士が前から来ると普通の吉野の武士は道の脇に体を避けて道を譲るのだが、中村は態と道の真中に立塞がって、何か言えば肩を怒らせて喧嘩を吹っかける、喧嘩や衝突に一度も負けたことがないので、吉野一帯の首領核になっていた。

 鹿児島から西のほうにある上之園に用があってやって来ると、先方から一人の侍がやって来た。風采の堂々とした、筋骨の逞しい武士である、喧嘩好きの半次郎は密かに慶んで道路の真ん中に突っ立っていると、その侍も足を止めて中村の方をじっと見ている、右の目が潰れて独眼であった、

『小僧、どけ』

『あんたが、どけ』

『イヤ、きさまどけ』

『退かぬ』

『きさま、吉野の唐芋の仲間じゃないか』

『さようでごわす』

『唐芋の分際で、上級のものに対して無礼な奴じゃ』

『そんな無礼なら腕ずくできやがれ』

 身体を斜めにして喧嘩腰だ、さすがにあまりの無謀に驚いて、独眼の侍は苦笑いをして中村の顔を見ている、中村は拳を握って今にも飛掛るような気勢を示しながら、『コレ、きさま馬鹿か豪傑か、馬鹿なら助けてやる、豪傑なら我慢ならん、何方か返事せよ』さすがに気を呑まれてこの武士も、只中村の顔を見つめるばかり。中村やや静かに

『あんたは同じ上級の武士でも、少し違うとかところがあるように思うから、おいどんの、考へをちょっと話しておこうと思う、お聞きくだされ』

『ウム、何と言う事か言うてみなはれ』

『おいどんな無学で天下の事は判らぬが、しかし思うに今日の太平は長く続かぬものと考える。
何れ一度は我が薩摩藩の力を以って、天下を治める時節が来るものと常に思っているが、卑しくも志あるものが、みだりに命を捨てるは惜しむべきことじゃ、同じ島津家の粟を食うてる者が、徒に上級の者であるとか、軽輩であるとかいうて相争うのは、甚だ面白くない事と考えるが、そりゃ貴殿どぎゃ思うか』 

『ウム』


『昔の人も四海の中は皆兄弟なりと言うているではないか、我々は敢えて無法に貴殿んい抵抗するものじゃないが、貴殿らの組が、俺どん等を恥ずかしめるから、おいどん等も武士は武士である依って、

サア来いと言って突っ張る訳じゃが、今日の天下が他日乱れて、島津家がその事に携るという場合には、一人としても不要な人間は無か思う、貴殿が普通の武士でなか故に、俺どん今争いが出来んが、もし貴殿が普通の武士であって、おいどんと此処で斬り合いをすれば、必づ一人は死するものじゃ、私の争いに死んで、それがお家のため、天和の為になるか、この事は上級の武士から慎んで下はらん事には、軽輩の我々には慎みようがなか思う、貴殿、それをどぎゃ思ひなはるか』


粗野朴訥な言葉を以って説いてくる、其の様子を見れば未だ年の若い一青年ではあるが、恐るべきはこの男の未来であると、彼の独眼の武士も非常に感じて言葉無く、暫くは中村の顔をみていたが、何を思ったか、やがて履いていた下駄を脱いで大地に両手を付いた。


『ヤア、こりゃ俺どんな悪か、貴殿は何誰方でごわした』


中村も、恭しく大地に手を付いた。


『之はご挨拶で痛み入る、俺どんな中村半次郎と申すものでごわす』


『エツ・・・おはんが興左衛門どんの一子、半次郎どんでごわすか』


『ハア』


『ヤア道理で普通の者でなか思うた。今後はお互いに懇意に付き合うことにしようや』


『シテおはん何誰人でごわすか』


『石見半兵衛でごわさす』


『オ、先生な岩見どんでごわしたか』

思わず二人は手を取ってにっこり笑った。

之の岩見は藩士のうちでも有名な豪傑であったが、一青年の中村に之まで言われて、腹を立てずに屈したという、又此処に強い侍の又美しい点はあり、この一件から中村の名前はいよいよ上級藩士の間にも知れ渡るようになった。(2181


中村は只強いばかりではなく、反面人情の深い、涙もろい人でもあった。

桐野という人物が、如何にも堂々として男子の風があったと言う事については、何人も反対派できないと思う。ある薩摩人の言に依れば、真の薩摩隼人を研究しようと思ふならば、桐野の両面をよく観れば判るというのであったが、まさに其の通りである。将来に於いて薩摩人を研究する者の為には、無常の格言であると思ふ。




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